だが、しかし

というわけで、鳥瞰的に見ればわたしはわたしの婚約者によって「教育」(そうして、あらゆる教育は暴力であることを忘れないようにしよう――もっとも「暴力」は必ずしも悪いものではないとか何とか……)を施され、ノーマライゼーションを達成した、ということになろうかと思う。わたしが不愉快を感じていないだけ、いっそう巧妙にその教育は行われたといってかまわないだろう。ところが、である。わたしは鬱病患者のように(「ように」というか、まんま鬱病患者な症状を呈してもいるのではあるが)「これまで興味があったことにいかなる興味をもてなくなった」「何も考えずに石原慎太郎に投票する白痴になりたい」「自己責任万歳」「スタンフォード大学の人に仕事をうまくやる方法について教えを請いたい」などと婚約相手を喜ばせるべく、自分の正直なところを述べたところ、彼女はどうもそれが気にくわないらしいのだ――まずは彼女の言い分を聞いてみよう。「なるほど、わたしはあなたの非現実的な態度に呆れてもいたし、むかついてもいた。だけれども、それを含めてあなたが好きだったのであり、たとえば本を読まないだとか、映画を観ないだとか、それ以上にあなたが世の中をなめてかかってすべてを馬鹿にしている態度をやめてしまったら、申し訳ないけれど、そんなのはあなたではないし、誰と付き合っているのかわからなくなるではないか」という発言が聞かれたのである(!)。これを聞いて、わたしが思い出したのは、かつて自分が言った言葉である。「わたしは、わたしのことを好きな人間が嫌いだ」。要するに「両想いの不可能性」について述べたのだが、そのような状態に彼女は陥っているようにわたしには思われたのだった。ふざけた人間(=かつてのわたし)は嫌いである、だが、ふざけなくなった人間(=現在のわたし)には魅力を感じない――と、書いて気づいたのだが、彼女はわたしのことが端的に嫌いなのではないだろうか……